プラトンの政治思想  

哲学を勉強すると、いつも古代ギリシャにまで遡った話を読まされる。そんな昔の話は面倒くさいからいいよと思っていたが、最近はギリシャ哲学から大いに学ぶところがあると思うようになった。以下は宇野重規『西洋政治思想史』よりプラトンの解説を見ていく。

ソクラテスが民衆裁判にかけられて死刑になったことに衝撃を受けたプラトンは、公共を担うべき市民とそれに値しない市民を分別した。自らの欲望をコントロールできず快楽を追求する大多数の人々には公共を担う資格がない。彼らは経済活動に専念すべきとされる。その上位に守護者層がある。守護者層の中にも2層あり、補助者層としての軍人と真の守護者層としての政治家がいる。このようにプラトンは明確にエリート主義を唱えた。

この説得力は現代でも否定できない。誰でも彼でも一人一票の選挙権を与えるという制度で本当に良いのか。少し話をすれば公共という感覚がまったく欠落している人たちはすぐに分かる。何らかのスクリーニングが必要なのではないか。東浩紀の『一般意思2.0』にもエリート主義が見られる。政治の現場ではインテリによる熟議を行なうが、大衆はそれを中継で視聴しながらコメントをする。インテリはコメントをちら見しながら熟議を進める。インテリと大衆には権限上の大きな格差を与えている。この程度の塩梅でいいのではないかという提案だった。

鈴木健『なめらかな社会とのその敵』も、情報技術による民主主義のアップデートというモチーフだった。選挙権の一部を信頼できる人に委任できるシステムを考案していた。面白いシステムだと思ったが、デマゴーゴス(扇動者)に票が集まってしまう懸念が強いので、ポピュリズムの罠からは抜け出せないかもしれない。

リベラルが権利の拡大を推し進めてきたが、残念なことに大衆は権利に見合う能力を身につけられないことが分かってきたのが21世紀の世界なのではないか。貴族院のようなものを復活させるとか、なんとかして民主主義の機能不全に対処しなければならないと思う。

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山脇直司『公共哲学とは何か』  

本書から政治哲学の基礎知識を抜粋しておく。今後の議論の助けになるだろう。

ソフィストとは、事柄の良し悪しを各自の主観的判断に委ね、それをいかにうまく伝えるかにだけ関心を寄せる。それをプラトンは「レトリック主義」として批判した。
現在でもソフィストのような価値観で動いている人々がいる。人間の価値観はすべて主観であり、しょせん自己満足にすぎないのだから、自分の自己満足を満たすために相手を操作・扇動して何が悪いと開き直る人たち。こういう人間が古代ギリシャにもいて、現代にも大量に存在するということは、「公共」という観念がまったく理解できない人間がいつの時代にも一定数いることを示していると思う。

アリストテレスの政治体制論は有名だ。良い政治体制として3つ、悪い政治体制として3つ挙げている。

【良い政治体制】
「王政」・・・一人の王が法にしたがって市民全体の利益を追求する
「優秀者支配」・・・少数のエリートが市民全体の利益を追求する
「国政」・・・民主政治がすくれた指導者のもとでうまく機能して市民全体の利益が追求される

【悪い政治体制】
「僭主独裁制」・・・一人の支配者が私利私欲を追求する
「寡頭制」・・・少数の富裕者たちが私利私欲を追求する
「衆愚民主制」・・・貧者の利益ばかりが追求される

このように6つの政体に分類したアリストテレスは、最善の政治体制は富裕者と極貧層の間の「中間層」が支配する体制だと述べている。現代の先進各国の政治的行き詰り状況も、中間層の崩壊が引き金になっているといっていいだろう。

カントは世界市民(コスモポリタン)の夢を語ったが、ナポレオンの帝国主義的侵略によって急速に色あせ、むしろそれに抵抗するための思想が求められた。その代表がフィヒテのナショナリズムだった。今でも「グローバル化に抵抗するためのナショナリズム」という図式は用いられる。

山脇はマルクス主義の歴史観を厳しく批判している。マルクス主義は「歴史の必然的発展法則」というイデオロギーをもっていた。封建制から絶対王朝時代を経て資本主義(ブルジョア)革命へ、そしてそれが崩壊して社会主義・共産主義にいたるという考え方だ。しかもそれが「科学」であると自称していた。そのイデオロギーのため、ソ連の抑圧的な政治体制への批判の目も曇っていた。

フレデリック・ラルーの「ティール組織」のビジョンにも歴史の発展法則が登場する。その元ネタはケン・ウィルバーの人間の発達段階理論だが、これは眉唾ものだ。かなりスピリチュアルの色彩が強い。マルクス主義の反省を活かすなら、このような段階的発達理論とは距離を置くのが賢明だろう。

山脇は80年代に日本の思想はすっかり遅れてしまったと言う。その要因は主に3つある。ひとつめはエズラ・ヴォーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」に便乗した「日本すごい論」の流行。こういうのをエスノセントリズム(自分化中心主義)と言う。言うまでもなく「日本すごい論」は今も大流行している。
話が逸れるが、日本美術の業界にもエスノセントリズムがある。「この特殊な日本のすばらしさ」を自画自賛するような展覧会も多い。そんな美術界を批判しているのが黒瀬洋平だ。


80年代に思想がダメになった2つめの要因はニュー・アカだった。引用しよう。

そしてこの時期に、既存の学界の業界化が進行するなかで、思想雑誌も思想を「ファッション」として売りに出すようなかたちに変貌していったように思えます。とくに、フランスの一部でしか流行っていない思想を、あたかもドイツを含めたヨーロッパのメジャー思想と喧伝したり、単なる連想ゲームのような軽妙な思いつきの類をニュー・アカと称して売り出したりするような軽薄な傾向が顕著になりました。その結果、「思想のオタク化」が起こったのです。それに便乗して営利をむさぼった夜郎自大的な思想業界や思想評論家たちの無責任さは、日本の若者にゆがんだ知識を煽ったという点で、今日あらためて糾弾されてしかるべきでしょう。

ここまでバッサリと批判するのかと私は驚いた。山脇は東大教授だが、アカデミズムの立場から見るとポストモダンの思想評論家たちはこれほど劣悪で有害な存在に見えていたのか。この文章は私がカルトを批判するトーンとまったく変わらない。山脇先生、怒ってます。

3つめの要因は時代錯誤的な管理型学校教育だという。これにより日本では人権や公共の感性が育たなかった。

次にハーバーマスのコミュニケーション論を整理する。現代の市民は肥大化した行政や市場によって家畜化されており、それに対抗するためには市民同士の討議が必要だという。コミュニケーションしあう人々の言明は次の3つを満たす必要がある。「客観的真理」「規範的正しさ」「主観的誠実さ」の3つである。
この3要件はしばしば引用される。SNSでの発言が信用される条件としても、「事実性があること」「倫理的であること」「誠実であること」として定式化することができる。この条件を満たす発言者をSNSで見つけるのはなかなか難しい。

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宇野重規さんの出演音声  

前回の投稿で取り上げた宇野重規が荻上チキのラジオ番組に出演している音声があった。

「保守」とは何かについて荻上チキらが議論する


荻上が現在のSNSの状況などを織り交ぜて補足してくれるので分かりやすい。排外主義ナショナリズムはまったく保守ではないと宇野は強調している。保守主義の源流であるエドマンド・バークについても丁寧に解説してくれている。

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宇野重規『保守主義とは何か』  

表題の本を読んで印象に残った箇所を引用していく。

かつて、第二次世界大戦で英国を主導した首相のウィンストン・チャーチルは、次のような言葉を口にしたという。「20歳のときにリベラルでないなら、情熱が足りない。40歳のときに保守主義者でないなら、思慮が足りない。」

これは格言だと思った。私自身も20代のときはかなりラディカルな理想主義者だったが、40歳近くになってだいぶ保守化している。これは一般的な傾向なのだろう。保守論客にも若いころはリベラルだった人が多いという。ところが近年では「若者の右傾化」と言われており、また別の現象が見られる。

バークは、このようなフランス革命のなかに自己蔑視をみてとった。自らの過去や父祖の行ないに対する敬意をもつことで、人は自己への尊敬を育む。これに対し、フランス革命は自らの過去と訣別した上で、抽象的な原理に基づいて社会を作り直そうとしている。このことは自尊の精神を否定し、さらには「自己を尊重する習慣を教え込まれていない人間」に権力を与えることにつながりかねない。

過去を切り捨てようとする人は自己蔑視の人だ。自己蔑視の人に権力は任せられない。フランス革命に反対したバークの保守思想とはそのようなものだった。

イギリスには小説家出身の政治家が多いという。「文学や評論を読むことで得られたメンタリティや思考法をもって、政治や社会と向き合う」という回路が広く認められている。これをイギリスでは「コモン・センスの哲学」と呼ぶ。「コモン・センス」とはふつう「常識」と訳すが、「共通感覚」とも訳せる。イギリスには「共通感覚」の伝統というようなものがある。それは芸術や文化によって獲得される感覚だという。
また、英国議会をユーモアの感覚で特徴づけることもできる。「ユーモアの正体は、話し相手の立場、或いは共通感覚の鏡に自分を写して、その立場からもう一度自分を振り返るところに生まれるものです。」

福田恒存によれば、保守とはまず態度の問題であって、イデオロギーの問題ではない。そもそもイデオロギーとして先行したのは革新主義である。現状に強い不満をもつ人間が、一定の世界観に基づいて変革を主張する。このような革新主義に対し、反発を覚える自己を認識したものが保守派となる。すなわち、保守は必ず革新に遅れて登場するというのである。
そのような保守派はイデオロギーを必要としない。自らの生活感情に根ざして必要な改革を行なえばいいのであり、むしろ「保守主義」なる大義名分をかざして自らを正当化しようとすれば「反動」となってしまう。(中略)福田は、保守とは過去を尊重する一つの生き方であり、理屈を振りかざして相手を説得する必要はないと説いたのである。


これで保守派というものがどういうものか分かった。一貫したイデオロギーがあるわけではないので保守主義というより保守派と呼んだ方がしっくりとする。それは革新主義に対する反発として定義される。その時代々々の革新主義に対して対抗言論を張るのが保守派なので、理論的一貫性はない。

宇野いわく、近代日本には一貫した伝統がないという。だから保守派といっても何を保守するのかはっきりしない。だから、だらだらと現状維持を望む人たちが保守派と呼ばれる。あるいは、保守すべき伝統を捏造する百田尚樹のような連中が跋扈する事態になっている。日本人は歴史に誠実に向き合うことが必要だと宇野は主張している。

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政治哲学タームの下調べ  

ゲンロン0をもとに、政治哲学の各概念と、それに対する東浩紀の評価を整理していく。

リベラリズム
人格的な自由を尊重する。経済的な自由は制限してよいと考える。福祉国家を支持。世界には普遍的な正義が存在するという立場で、カントやヘーゲルの弁証法を信じる人たち。20世紀後半に批判を浴び、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムに分解した。
(東の評価)
リベラリズムにはたしかに重大な問題があるが、人類は普遍性をあきらめるべきではないし、世界市民として成熟する可能性を考えたい。リバタリアニズムとコミュニタリアニズムはたしかに論理的には正しいかもしれないが、そういう世界が人間にとって幸せだとは思えない。

コミュニタリアニズム
普遍的な正義など存在せず、各共同体内の善だけが存在すると考える立場。現代の内閉的なナショナリズムを支える思想的な基盤。
(東の評価)
リベラリズムに対する批判としては、これよりもリバタリアニズムのほうが原理的であり重要だ。

リバタリアニズム
最小国家を主張する立場。個人のあらゆる自由を最大化すべきだとし、国家にはほとんど何も期待しない。福祉にも反対。IT起業家やローンウルフ型のテロリストなどに典型的に見られる思考パターン。
(東の評価)
国家をただの装置として考えている点で、近代哲学の伝統を完全に無視している。かつては個人の人格的成熟にとって国家は必要だと言われていた。しかし考えてみれば国民国家という概念は17世紀に現れた新しい概念に過ぎない。人間が「国民」になることによって成熟するというモデルは虚構にすぎない可能性もじゅうぶんある。
(私の印象)
リバタリアニズムには自閉症的な印象がある。他者への共感性が感じられない。容易に自己責任論を支持し、けっきょくそれによって自らの首を絞めてしまう。慌てて自己啓発に勤しむが、人間はそう簡単に変わるものでもない。つまり理屈だけで考えて人間というものへの洞察が足りない人たちがリバタリアニズムを採用している印象がある。しかし、ひょっとすると現代社会は自閉症的な生き方を強いる大きな力が働いているのかもしれない。その力とはおそらくグローバル市場経済であろう。

マルチチュード
グローバルなネットワーク型の権力構造を「帝国」と呼ぶ。それに対して「アラブの春」のような自生的な抵抗運動をマルチチュードと呼ぶ。そこには中心的な価値はない。リーダーはいなくても民衆のネットワークが運動を起こす。日本ではSEALDsの国会前デモが典型的だった。価値観や思想を問わず連帯するというビジョンに多数の左翼が熱狂した。
(東の評価)
グローバルな権力に抵抗することができる唯一の哲学的概念であるとして高く評価している。しかし、マルチチュードには重大な欠陥がある。第一に、マルチチュードの運動体はグローバル権力とまったく同型のものであり、縮小コピーのような相似形をしているということだ。帝国の原理の反作用として生まれたものなので、そもそもの原理も同じだ。それで帝国に抵抗しようとしてもしょせん限界がある。第二に、多様な人々が共通点がないのに連帯するというが、その根拠がまったく不明だということだ。アクロバティックな「否定神学」の論理に依拠しているが、それは実際には信仰にすぎない。
(私の関心)
マルチチュードはネットワーク上の自己組織化を特徴とするが、ティール組織の原理に似ていると思う。ただしティール組織は組織としての存在意義を明確化することを必要条件としているので、否定神学に陥ることはなさそうだ。ティール組織では予め価値観を共有する人たちが集まるので、政治運動としてのマルチチュードほど弱い連帯ではない。

プラグマティズム
「真理」とか「正義」といった言葉の深淵な価値を認めない。個人の私的な信念は自由だが、公的なふるまいにおいてはそれを出してはいけない。この分裂、矛盾を指して「リベラル・アイロニスト」と言う。普遍的な価値を認めない立場なので、人々が何によって連帯できるのかが問題になる。ローティは共感によって連帯できると言う。
(東の評価)
東自身は普遍をあきらめていない。だが共感によって連帯するといビジョンは支持している。ルソーも憐れみによって社会はできていると説いている。フランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける』も同様のモチーフであり、、東も強い関心を示していた。



こんなところだと思う。ちなみに東自身のアイデアは「郵便的」とか「誤配」とか「観光客」とかいろいろ言うのだが、あまりにも弱弱しくて、そんな連帯が実在するのかどうかさえよく分からない。私としてはそういうよく分からないものに賭ける前に、まずはメインストリームの議論を追ってみたいと思う。

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