とまべっちーの考え事

ホラクラシー組織の学習塾を作ってみたい。

オピニオンを言う人は固有名性を明らかにするべきだ  

ハンナ・アーレントは活動と労働を区別した。活動とは公共的な議論のことである。そこでは顕名であることが重要だとされる。現代の政治家もそうだが、何を言ったかよりも誰が言ったかが決定的な重要性を帯びる職業がある。批評家や哲学者もそうだと東浩紀は言う。

これは言論と固有名性の問題である。かつて戦前には「匿名批評」というジャンルもあったそうだが、すっかり廃れてしまったのでやはり非合理的だったのだろう。このブログでは匿名の言論を擁護してきた。発言内容を吟味して信ぴょう性を判断すればよいと考えていた。それは実際に有効な面があり、匿名だからこそ重要な情報を寄せてくれる人たちもいた。情報収集とその吟味においては匿名でもかなりできることが確かめられた。ジャーナリズムのような言論活動は匿名でもかなりうまくできる。

しかし、政治的な主導権争いになると話は別だ。利害関係者どうしが政治的意図をもって匿名で議論する空間には問題がある。それはお互いの裏の意図を詮索し合う不毛な議論になりやすい。オピニオンを発信するなら自身の立場を明らかにする必要がある。アーレントが言うとおり、固有名性が必要なのだ。

私自身は匿名とはいえ「とまべっちー」という固有名性をもっている。これまで書いてきたことを読んでもらえば、私がどんな人格でどんな思想を持っているか分かってもらえるだろう。だから固有名性を担保にオピニオンを発信することができる。だが、私よりもはるかに匿名性が高いコメントの人たちは別だ。継続的にコメントを書いてくれている人たちには固有名性が宿るので信頼性があるのだが、固有名性が不明の書き込みもある。固有名性を明らかにしないでただオピニオンだけを主張しに来る人は迷惑だ。たとえば「自分は信者ではない」と言いながら強引な論法でその団体を擁護する発言を繰り返すような人たちは議論の邪魔である。匿名を担保した場で政治的な議論をすると、そういう人たちが集まって来てしまうのでダメだということが分かった。

匿名がダメなわけではない。匿名でも合理性のある主張には相応の価値が認められるのは当然のことだ。私が言いたいのは、匿名で自分の信念を主張するときには注意が必要だということだ。信念は人格と結びついているのだから、信念を表明するなら人格をさらす必要がある。そうでない信念の表明などにいったい誰が注意を向けるだろうか。
匿名でも人格を表現することはできるので、実名を名乗る必要はない。人格を表現する簡単な方法は、長期にわたってSNSを続ければいいと思う。そうすれば人格は滲み出てくるので、他人から見ても信用されやすくなるだろう。

カテゴリ: 思想

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コメント

よく隠れるものこそ、もっとも良く生きる。
デカルトの生き方です。デカルトが隠れたのは田舎ではなく、オランダの都会です。
現代においてもある程度の匿名性は必要であると私は思います。

85 #- | URL
2018/11/11 00:36 | edit

少し補足。このブログのコメント欄では、政治的意図を持っているにもかかわらずそれを隠しながら議論を誘導しようとする人がいました。読解力のある人なら誘導には乗らなかったと思いますが、一般の読者は勘違いしたかもしれません。議論の見通しを良くするためには、やはり発言者のプロフィールを可能な範囲で明示したほうが効率が良いです。なかには複数のハンドルネームを使い分けている人もいました。利害が絡むと人はなりふり構わなくなるので、なんらかのレギュレーションは必要だと感じました。各自がツイッターアカウントで発言するほうが、匿名掲示板よりはずっと健全だと思います。

tomabetchy #WSsdzqd. | URL
2018/12/12 08:49 | edit

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