とまべっちーの考え事

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「人間の本性を考える」スティーブン・ピンカー  

私が本書に興味をもったきっかけはこれを読んだことだった。

仲正昌樹教授は、連載ブログでなにを語っているのか――五分でわかるまとめ・そのⅠ しんかい37(山川賢一)
https://note.mu/shinkai35/n/nade2fd8766e9

どうやらスティーブン・ピンカーのブランク・スレート批判はポストモダン思想に対するクリティカルな批判であるようだ。本書に沿ってその内容を書き留めておく。

まず3つのキーワードを挙げる。ポストモダン思想家がよく使うものだ。それは「カテゴリ」、「言語」、「イメージ」である。それぞれを見ていこう。

(1)カテゴリ
 人間はさまざまなカテゴリによって世界を認識する。それは便利なものだし、相当の合理性もある。しかしポストモダンによると、それらのカテゴリは社会的に構築されたものであり、差別的なステレオタイプでもあるので、解体すべきだという主張になる。どうしてそんな主張をするのかといえば、少数者や弱者を擁護するためだ。しかしその主張は行き過ぎている。一般的な人間の認知能力を誤って理解している。人間がカテゴリで概念形成していくメカニズムはかなりの程度生得的なものであり、神経生理学的な根拠をもっている。ポストモダニストはそれを無視して、あらゆるカテゴリ概念は社会の権力者がインストールしたものにすぎないというような言い方をする。
 このような針小棒大の拡大解釈はポストモダンのお家芸であり、典型的な相対主義の論法である。

(2)言語
 人間の思考が言語によって大きな影響を受けることは当然のことだが、ポストモダン思想ではそれを極端に考える。デリダは次のように書いている。「言語から逃れるのは不可能である」「テクストは自己言及的である」「言語は力だ」「テクストの外には何も存在しない」。ロラン・バルトは「人間は言語以前には存在しない。種としても個人としても。」と書いている。このような言語偏重の価値観がある。
 しかし、脳科学の研究によれば、人間は言語を習得する以前から思考の型のようなものを持っていることがわかっている。その型に合わせるように言語はつくられているので、幼児でも簡単に習得することができるのだ。言語中心主義は科学によって棄却される。

(3)イメージ
 映画やメディアなどの表象を研究するポストモダン哲学者は多い。世界を虚構のイメージとして認識したがる人たちが多い。平行世界に憧れたり、マトリックスなどのVR世界や電脳コイルのような世界観に敏感に反応する。総じて情報空間の価値を過大評価しがちだ。その背景にある欲望は、現実世界に対する不満、行き詰まり感であり、どこかに抜け道はないかと探しているのだろう。
 人間の脳内のイメージはかなり不完全であり、恣意的でもある。それは科学でも認められている。しかしポストモダニストはまたしてもそれを拡大解釈する。人間はイメージをもとに現実観をつくるのだから、イメージこそ現実そのものである、と見なす。このようにして現実を過小評価し、相対主義を引き寄せようともくろむ。私たちが住んでいるのはイメージの世界であって現実の世界ではないというような話になる。
 実際の脳の知覚システムはもっと複雑であり、広告やメディアをそのまま受け取っているわけではない。複雑な計算を瞬時に行なっており、イメージを見せられても現実との距離感を適切に把握できる。空想と現実を混同するようなことは(統合失調症でなければ)まずめったに起こらない。

以上見てきたように、ポストモダニストは人間が社会によって意図的につくられたものだという人間観に立つ。その上で権力を批判し、マジョリティを批判し、抑圧されているマイノリティたちに「もっと怒れ!」と煽る。フェミニズムもこの構図で説明できる。オカルト系自己啓発もポストモダン思想から大きな影響を受けているし、ブランク・スレート信仰もはっきりと認められる。

私見では、千葉雅也は上の特徴にかなり当てはまっているような気がする。とてもポストモダン的な哲学者だ。その言動はかなり原理主義的といっていい。東浩紀は千葉よりもはるかに保守的な知識人だと思う。東がブランク・スレートを信仰しているとは思えない。千葉は極左で、東は中道左派。

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