とまべっちーの考え事

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「批評」の魅力はトリックだったのか  

私はずっと批評が好きだった。第一に東浩紀、次に宇野常寛。大きな世界観や時代感覚を得られるような気がして高揚感があった。しかし、最近それは錯覚にすぎなかったのではないかという反省が頭をもたげている。

ポストモダン批判で有名な山川賢一が東や宇野の論法を解説している動画がある。非常に分かりやすい。

東や宇野の著作においては、鍵概念の定義が徐々にずらされていく「グラデーション論法」が使われているという。論理的には矛盾があるのだが、それを巧妙にごまかすトリックだという。あたかも切れ味鋭く時代の変化を見切っているかのように見せているが、精読するとじつは意味不明。彼らの批評文はそういうものだと喝破している。

学問的な論拠も乏しい。「批評」が好んで引用する大澤真幸も学界では必ずしも評価されていない。批評家が批評家を引用して批評を書くという自家受粉のようにも見える。

トリックがばれないコツとして、フランス現代思想の難解な用語によってカモフラージュしているということもあるが、もうひとつは、時代的な直感に合った主張をしているという点が重要だ。結論が妥当に見えるものであれば、その過程は厳しく吟味されにくい。東や宇野は何より時流を読む能力に長けているのだと山川は分析している。

私は東浩紀の知性を高く評価してきた。「日本一の知性」とさえ評価してきた。しかしひょっとするとそうではなく、ネットでパフォ―マンスしている人たちの中では賢く見えるというだけだったのかもしれない。世の中には、ネットから見えないところで、もっと知的に誠実な仕事をしている天才たちがいるのかもしれない。彼らは一般市民向けにアピールしないので私が知らないだけなのかもしれない。

私はなるべく知的なネットコンテンツを摂取してきたつもりだが、そもそもネットで探していたのが間違いだったのではないか。ネットで賢くなれるなどと考えるのはとんだ見当違いだったのではないか。

東や宇野のようにビッグ・ピクチャーを描いて見せるとネットではよく受ける。最近では落合陽一もそうだ。イケハヤやはあちゅうなどのインフルエンサーたちもその相似形と言っていいだろう。ネット民は知恵が欲しいのではない。メンターを求めているのだ。自分の生きづらさを救い、成功させてくれそうな人に熱狂し、その人と自分を同一化することでモチベーションを高めているのだ。そういう効用があれば何でもいいのであって、彼らの発言に根拠がなかろうと関係ない。知的に誠実でなくても関係ないのだ。

私自身もそうだった。私が東や宇野に最も強く惹かれていた時期は、人生に行き詰まり感があったときだった。死ぬほどブレイクスルーを必要としていた。だから「これだ!」と思って飛びついた。今から思えば恥ずかしい若気の至りだ。
実際に効能もあった。自信をもって現実社会と戦う力をもらったと思う。振り返れば、やはり私は、批評書を自己啓発本として摂取していたのだと思う。そして、私のようなカジュアルな読者にも届くような回路を持っていたのが東や宇野の特徴であり、彼らの戦略だったといってもいいのだろう。とくに宇野のほうは露骨に自己啓発ビジネスに移行しており、そのぶん勢力を増している印象がある。

批評とは何なのか。いまだによく分からない。とりあえず東浩紀的なものを批評だと思ってきたが、それをどのように評価すべきか、今後の自分にとってどれほど必要なものなのか、どれほどコミットすべきものなのか。再検討が必要な時期に来ていると感じる。

カテゴリ: 東浩紀論

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