とまべっちーの考え事

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『ストリートの思想』の感想とか  



 サウンドデモとか高円寺のやつとかを取り上げた本だ。その思想的バックボーンとしては「マルチチュード」の概念を重視している。外山恒一が高く評価していたので読んでみたが、ここで言われている「ストリートの思想」が重要なものだという印象は正直なところ受けなかった。2009年の本なのですでに時代状況が古びてしまっているのだと思う。

 しかし、日本の思想状況の推移をコンパクトに解説した本としては面白く読めた。大学紛争の後、大学が政治色を失ってレジャーランド化していったことや、朝生によって言論が良くも悪くもテレビ化していった流れなどが整理されていた。朝生は硬派な議論をやっているように見えるがしょせんエンターテイメントに過ぎず、社会制度を変革する力を原理的に持ちえないという。なぜなら民放テレビのショーとして、つまり商売としてやっているため、議論は常に恣意的に誘導され、恣意的にぶった切られるからだ。制度の中でやっている茶番に過ぎない。

 批評家に自己同一視して彼と同じように喋り快楽を得る視聴者たちのことにも言及されていた。それがつまりエンターテイメントということだ。耳が痛い。

 

 こういう構図になっているらしい。東は理論的な批評家であり、一方で一群の実存的な批評家たちがいるらしい。批評集団「大失敗」も後者に位置づけられるようだ。たしかに外山恒一を推しているところをみても、「運動」を重視しているように見える。

 私も批評のような知性の使い方が元々好きなのだが、さてこれからはどういうスタンスで批評と付き合っていけばいいものやら。批評とは、非専門家が分野をこだわらずに、自由に大きなことを書く文芸のことである。根本的には「面白ければいい」という価値観がある。学問的な根拠は薄くても構わないらしい(批評家にもよるが)。しかし、そうなると、批評家とカルト宗教の線引きが曖昧になる。疑似科学や自己啓発との線引きが曖昧になる。グレーゾーンで発言をしている人たちが大勢いる。たとえば内田樹のエッセイも、学問的な裏付けのある話というより、個人的な直感で書いている。それなりに論理的だから広く読まれているのだが、その根拠は、しいて言えば文章自体の論理性でしかない。
 批評文というのはなかなか厄介なものだということが分かってきた。なまじ「分かりやすい」ことが毒にもなる。それでいいのか?という道義的な問いが絡む。

 批評家は大学のアカデミズムに不満を持っている。アカデミズムの手が届きにくい領域を、いわば非公式のやり方で埋めていくのが批評なのかもしれない。そういう補完関係があるのは悪いことではない。しかし、私は現代の批評の状況には不満がある。タコツボに入っていたり、限りなく自己啓発みたいなことをやっていたりと、どうにも「乗れない」ものが多い。どうしたものか。

カテゴリ: 本の紹介

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